猛暑が続いた今年の夏。少しずつ落ち着きをみせる空気の中でチェット・ベイカー(1929.12~1988.05)の音楽を聴く。若かった頃にスター・トランペッターとして名声をほしいままにしていったチェットであったものの、青春の光と影を背負ったチェットの栄光の時代は長くは続かなかった。いっぽうで、亡くなって30数年を経た今もチェットの音楽スピリットは、現代の若いミュージシャンに脈々と受け継がれていっている。そんなチェット・ベイカーの音楽のあり様を3枚のアルバムをとおして確認してみたい。
「チェット・ベイカー・シングス」
(ユニバーサルミュージック UCCU-46052)
チェット・ベイカーの多くのアルバムのなかでも屈指の名盤、人気盤の「シングス」。翳りをもったチェットの歌声は豊かな声量ではないが、中性的な表情をもったけだるい表情はきわめて個性的で強烈にジャズの匂いを感じさせる。アルバムが吹き込まれた1950年代半ばといえば、チェットはまだ20代前半の若さ。勢いのあった西海岸ジャズ・ブームの中でトランペッターとして、ダウンビート誌やメトロノーム誌の1位に輝いて人気の頂点にあった。たまたまスタジオで<アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥ・イージリー>(I Fall in Love too Easily)を歌ったところ、唯一無二の個性が評価されてヴォーカリストとしてのセッションが生み出されることになった。クールなトランペット・ソロもフィーチュアされるのは言うまでもない。抒情的にメロディーを吹き綴ってゆくチェットのトランペットは青春の輝きや甘さ、ほのかな哀感をいっぱいに漂わせているが、そのヴォーカルもまた愁いをたっぷり含んで心に突き刺さる。
有名な<マイ・ファニー・ヴァレンタイン>や<ザット・オールド・フィーリング><ザ・スリル・イズ・ゴーン>をはじめ、すべての曲がチェットならではの“美学”に彩られた名唱ばかり。「チェット・ベイカー・シングス」にはステレオ時代になってギターなどをオーバーダビングしたステレオ・アルバムも存在するが、やはりこれはオーディオ的にもオリジナルのモノラル録音で楽しみたい。
「ホエン・サニー・ゲッツ・ブルー/チェット・ベイカー」
(LP Steeplechase G1221)
ジャズ界のスター・プレイヤーの中にあっても、チェット・ベイカーほど波乱に満ちた人生を送り続けたプレイヤーはいないだろう。麻薬によるトラブルから何度も事件に巻き込まれて逮捕、服役したこともあり、70年代半ばからはヨーロッパに活動の中心を移して、トランペット一本をもって請われるままに演奏を続けていった。
そんなチェットは生涯に2度、日本を訪れている。いずも晩年になってからで、1986年3月と87年5月。その時に日本で録音した作品もあるが、これは初来日直前の86年2月にコペンハーゲンのスタジオで録音された一枚で、地元のリズム・セクションをバックにしたワン・ホーン・カルテットによる演奏。死の2年前のレコーディングということになるが、年齢も50代半ばを過ぎて人生の辛酸を舐めつくしたチェットのトランペットは、しみじみとした彼の独白のように響いてくる。<イズント・イット・ロマンティック>では、いっそう枯れた味わい深いヴォーカルも耳にできる。晩年の澄みきった心境を示すかのようなピュアーな音楽。プレイの内容以上に、チェットの人生そのものが浮かび上がってくる。オリジナルはCDでリリースされて復刻もなされているけれども、ここは昨年末に初復刻されたLP盤で味わいたい。
「チェット・ベイカー・リイマジンド」
(ユニバーサルミュージック UCCM-1278)
チェット・ベイカーの音楽はジャズの領域を超えて、今日の多くのミュージシャンたちにもインスピレイションを与え続けている。2015年に「ボーン・トゥ・ビー・ブルー」、2018年に「マイ・フーリッシュ・ハート」と、彼の生きざまを描いた映画が作られていることからも、チェットの音楽が過去のものでなく、時代を超えて今日に新たな息吹を吹き込んでいるのが分かる。
この5月に国内リリースされた「チェット・ベイカー・リイマジンド」は、イギリスを中心にアメリカ、韓国、オランダやオーストリアの、ジャズ、ポップ、フォーク、R&Bなど多様なスタイルをもつ若手ミュージシャンが、それぞれに「チェット・ベイカー・シングス」の曲を中心に再解釈をおこなったアルバム。コンテンポラリーな響きの中に、どれもがチェット・ベイカーのエッセンスを掴みきっているのに驚嘆。それはチェットが当時から時代を超えた音楽を演じていたことの、何よりの証しでもあるだろう。国内盤はミシガン出身で日系の血をひくメイ・シモネスによるギターの弾き語り<マイ・アイデアル>をボーナス・トラックとして追加収録。オーディオ的にも聴きどころは多く、少しボリュームを上げて聴くと、音楽のもっているデリカシーの綾、さらには心地よくのびてゆく低音までが、チェットの音楽そのもののように聴き手の心を温かく包み込んでくれる。
小さい頃からさまざまな音楽に囲まれて育ち、早稲田大学モダンジャズ研究会にも所属。学生時代から音楽誌等に寄稿。トラッドからモダン、コンテンポラリーにいたるジャズだけでなく、ポップスからクラシックまで守備範囲は幅広い。CD、LPのライナー解説をはじめ「JAZZ JAPAN」「STEREO」誌などにレギュラー執筆。ビッグバンド Shiny Stockings にサックス奏者として参加。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン理事。